Twitter 公式サイト「気を考える」 改編・改題


「気の世界への旅たち」(改題)

並木克敏


Twitter公式サイト http://twitter.com/#!/mikenekobusu







2011年の正月元旦より新しい年に願いを込めて Twitter (ツイッター) で「

つぶやき」を始めました。当初は, 「バーチャル気功道場」や「リアル教室」で

の内輪の話, 私の周りの些細な出来事, そして気や気功についての私の想

いを徒然ままに語りたいと思っていました。ところが, 私の性格なのでしょう

が, 徒然ままに書くということができず, 次第に「気と気功を科学する」という

テーマに傾いてきました。最近になって, 「NHK科学文化部」がフォローして

くれるようになったことですし, このまま「気と気功」を日常の生活からやさし

く科学するを続けることにしました。さらについ最近では, 糸井重里氏やホリ

エモン氏, 「朝日新聞社社会部」と「NHK生活情報部」がフォローしてくれまし

た。「バーチャル気功道場」や「リアル教室」での内輪の話などは「リアル教

室便り」を参照して下さい。


【 改題「気の世界への旅たち」について 】

この「一指禅功日本リアル教室」のホームページでは, Twitter 公式サイト

の 「気を考える」を, 読者の方が読みやすいように時系列で改編し, 題名を

「気の世界への旅たち」としました。「Twitterつぶやき」ではなく, 物語性の

ある「エッセイ」としたいためです。





Twitterの画面です

並木克敏バーチャル気功道場

@mikenekobusu 東京江戸川区



並木克敏です。一指禅功の気功教室を主宰しています。この教室は

健康の維持と病気の回復を目的とした内気功を扱っています。外気

療法を目的とした外気功は「バーチャル気功道場」の通信教育講座

があります。


http://issizen.michikusa.jp/index.html










                      「気の世界への旅たち」 目次


  第1章 プロローグ 気と霊についての独り言 (01)〜(15)
  第2章 科学とは全ての事象を法則化したもの (16)〜(26)
  第3章 科学はこの世の全てを証明し尽した訳ではない(27)〜(35)
  第4章 科学と人間の生き方のと間にある摩訶不思議な境界(36)〜(46)
  第5章 「どう生きたいのか」は「何をしたいのか」である(47)〜(57)
  第6章 社会的な肩書きを失えば, みんな「ただの人」(58)〜(72)
  第7章 過去と未来 希望と欲望 一瞬に消し去るものとは (73)〜(75)
  第8章 運動は, 寿命を伸ばすのか, それとも縮めるのか (76)〜(85)
  第9章 厚労省推奨 一日一万歩のウォーキング健康法 (87)〜(97)
  第10章 東洋の健康法 非日常世界での鍛錬法 (98)〜(105)
  第11章 気功実践者と傍観者との間にある壁 知識と実践 (106)〜(115)
  第12章 気功=ブラシーボ効果説 気功師=早老・早死説 (115〜120)
  第13章 日常生活の間に横たわる超え難い壁 (121〜126)
  第14章 気功実践者と傍観者との間にある壁 気感の有無 (127〜132)
  第15章 日常生活における「プラシーボ効果」とは (133〜138)
  第16章 気功の鍛錬時における「プラシーボ効果」とは (139〜148)
  第17章 プラシーボ効果が入る余地のない「一指禅功」 (149〜155)
  第18章 馬歩椿が身体に与える影響 血液循環の効果 (156〜165)
  第19章 馬歩椿が身体に与える影響 気血促進の効果 (166〜171)
  第20章 馬歩椿による主観的な現象 指先の痺れと汗ばみ (172〜174)
  第21章 馬歩椿による客観的な現象 指先が真っ赤になる (175〜181)
  第22章 馬歩椿による客観的な現象 指先から気が出る (182〜188)
  第23章 手の平から気を出す練習法のひとつ 経絡弾子功 (189〜)







第1章 プロローグ 気と霊についての独り言 (01)〜(15)


気を考える (01) 1月4日の夕方に, リアル教室で使うノートパソコンの修
理のため, 秋葉原のソフマップへ行ってきました。秋葉は肩がぶつかるほど
の人の波で溢れていました。不景気のせいか殆どの人がクロなどの地味な服
装でしたが, 「旦那さま, お帰りなさい」の少女だけが派手々々でした。


気を考える (02) リアル教室でなぜコンピューターが必要かというと, 大
学での講義と違って, 何を質問してくるか予想できないからです。大学での
講義の場合, 茶室がテーマであるならば, 学生はその範囲で質問してきます。
リアル教室では, 健康全般がテーマなので, コンピューターの助けが必要な
のです。


気を考える (03) 「バーチャル気功道場」で使っているこのデスクトップ
は, 購入後6年が経過しているので, すでに履歴保存のための電池に寿命が
きている。誰かが電池の寿命が終わると, BIOS設定が消えてしまい使い物に
ならないと言っていたが, 内蔵時計が0時に戻るだけで, ほかに支障はまっ
たくない。


気を考える (04) 私のコンピューターに関する知識は, 「バーチャル気功
道場」のホームページを作る程度でしかない。ハードデスクや内臓電池の寿
命についても, お恥ずかしながら最近知った次第である。0と1のデジタルの
世界でさえ, ホームページを通じて手に入る情報は不正確で曖昧としている。
11.01.10


気を考える (05) コンピューターのデジタル世界でさえ, ネットに流れて
いる情報は不正確なものが少なくない。まして超アナログ世界の「気」や
「気功」に関しては, UFOと同じ様に賛否両論かつ支離滅裂である。そんな絡
み合った糸をほぐして, できうる限り本当の姿(実像)を「つぶやき」たい思
う。11.01.11


気を考える (06) どうして気と気功に関して世間では, 賛否両論なのかと云
うと, 気の正体が現代の生命科学では捉え切れていないからである。生命の設
計図=DNAの解明がこれほど進んでいるのにと思うかも知れない。しかし, 現
代医学では腰痛の8割が今も原因不明のままなのである。11.01.13


気を考える (07) 気に関して賛否両論が存在するのは, 次の二つのことが考
えられないだろうか。一つは気の正体が何であるか, 今だ科学的に証明されて
いないからである。二つには, その気を操る気的能力が思考の産物ではなく,
日々の鍛練の結果としてしか獲得できないからである。11.01.14


気を考える (08) 気の正体が不明だと云っても, 故・丹波哲郎さんの云う死
後の世界や霊とは違う。ある人は霊が見えるというが, それを科学的に証明す
ることは不可能である。磁場の強い場所では, 容易に幻覚が現れるそうである。
脳内の情報は, 電気信号でやり取りしているからである。11.01.15


気を考える (09) 磁場の強い場所だからと云って, 誰にでも幻覚が現れるわ
けではない。新エネルギーとして風車が注目されているが, そこから発生する
低周波音で, 付近の住民に目まいや頭痛などの被害が出ているが, すべての人
にではない。低周波音に対する感受性にも差がある。11.01.16


気を考える (10) 低周波騒音被害に自治体が対策を打つのは当然である。こ
こで言いたいことは, 低周波音だけでなく, 電磁波や磁場にも影響を受けやす
い人と, そうでない人がいるという事実である。霊が見えるという人は, この
種の刺激に超々敏感な感受性の持ち主のように思える。11.01.17


気を考える (11) 世間でいう霊能者とは, 外部の物理的な刺激に超々敏感な
感受性の持ち主であり, 普通の人には見えない「霊」という幻覚を, 脳内の神
経回路で自ら作り上げている人間と, 私は解釈している。あえて想像するなら
ば, 人間形成の過程で特異な体験をされているのでは ? 11.01.00


気を考える (12) 霊能者という人間は, 電磁波や磁場などの外部環境に, 脳
の神経回路が影響を受けているという自覚が無いが故に, 霊という幻覚を実際
に見ていると信じているのでは。もし, 霊が存在しているのなら, 現在の日本
人はもっと襟を正して生きているのではないだろうか。11.01.00


気を考える (13) Wikipediaによれば「霊能力とは、霊や魂、生霊、精霊など
を感覚したり、霊的な力を行使して、通常の人間ではなし得ないことを行なう
とされる能力である」とある。ただし「現時点では、科学的に解明されてはい
ない」ともある。気功はこの霊能力とはとはなんの関係もない。11.01.00


気を考える (14) 死後の世界や霊と, 気功を一緒にしないで欲しい。死後の世
界や霊は, 故丹波哲郎さんがこの世に戻られて, 私たちに証明してくれない限
り, どんなに科学が進んでも永遠に証明不可能である。霊媒者による代弁もある
が, 霊媒者もまた同じ脳神経回路の持ち主である。11.04.01


気を考える (15) 私は, 美術学部に入る前は工学部に籍を置き, 数学や物理学
などの科学的な教育を一応受けてきた。霊が見えるということが事実なら, そ
れは物理現象なのであるから, たとえ他の人が見えないとしても, ある種の測定
器になんらかの反応があるはずである。しかし無い。11.04.17







第2章 科学とは全ての事象を法則化したもの (16)〜(26)


気を考える (16) 科学的な教育を受けた人は, それが科学的に証明されてい
ないからと云って, 頭ごなしに否定することはない。どうしてなのだろうかと自
問自答し, そこで立ち止まる。なぜならこの世界は, まだ科学的に証明されて
いない多くの事象があることを知っているからである。11.06.24


気を考える (17) 「科学とは何か」を簡単に説明するとすれば, 宇宙や身の回
りに存在する諸々の現象を, 人間が後から理屈付け(法則化)したものである。リ
ンゴが木から落ちるという現象を見て, ニュートンは「万有引力の法則」を発見
したとされているが, まずは現象ありきなのである。11.08.02


気を考える (18) 科学的思考がない時代にも, 宇宙は存在し, 地球は太陽の周
りを回り, 大地には生命の営みが行われていた。この諸々の事象の一つ一つを,
客観的に理屈付けし法則化したものが科学である。しかし現在なお, すべての
事象が科学的に証明されてしまったわけではない。11.08.13


気を考える (19) 身近な「あくび」であるが, Wikipediaによれば, その「発
生する原因や生物学的意義は、現時点では未解明である」という。従来は、肺で
の酸素と二酸化炭素の交換を高めるためとされていたが, こんな単純な身体のメ
カニズムさえ, 今だに科学的に証明されていないのである。11.08.00


気を考える (20) もう一つ身近で誰もが経験する腰痛であるが, 現代医学では
腰痛の8割が今も原因不明のままであると云う。知り合いの女医さんによると,
エックス線や血液検査などによっても原因が分からなかった腰痛を, 患者さんに
教えずに外気治療を施したところ, 痛みが消えたと云う。11.08.00


気を考える (21) 宇宙科学の分野でも, 大宇宙の96%を占めるダーク・マター
(暗黒物質) と, ダーク・エネルギーが何であるかは, 依然不明のままなのであ
る。私たちが日常的に目にする物質や, 陽子や中性子など観測されている物質
を含めても, 全体の約4パーセントしか知らないのである。


気を考える (22) 科学とは, 同じ条件の下で同じ方法で試したとき, 同じ結果
が得られるものである。これを実証科学と呼び, 動かし難い客観的な事実という
ことである。だから, 科学では割り切れないとか, 科学を信じるとかいう問題で
はない。こうあって欲しいという主観の入る余地はないのである。


気を考える (23) 科学とは, 同じ条件の下で同じ方法で試したとき, 同じ結果
が得られるものである。ということは, 条件が違えば, 当然その結果も異なるの
である。たとえば音の速さ(m)は, 空気中を1.5 + 0.61t」 (t は摂氏温度)で伝
わるとされているが, ただしこれは1気圧という条件の下である。2012.05.30


気を考える (24) 科学とは前提条件が変われば, その結果は違うものになるが,
人間の思考パターンとも関係していて興味深い。学生の頃に恩師に, 「頭のいい
人とは?」と質問したところ, 師曰く「一つの事象に対して多くの条件を付けら
れる人」との答えが返ってきた。科学と同じではないか。2012.05.30


気を考える (25) 「頭のいい人とは?」の質問に, 「一つの事象に対して多くの
条件を付けられる人」との解答が恩師から返ってきたが, 四十数年の歳月が流れ
た今も, その含蓄の深さに感嘆している。この思考パターンを身に付けるには,
小学時代に算数や理科をしっかり学ぶことである。 2012.09.10


気を考える (26) 「頭の悪い人」とは, 一つ事象に対して, それがどういう条
件の下で成り立つのかが曖昧なのである。世間では分数など学んでも, 実生活で
は役に立たないとする者もいるが, 算数はそんな小さなことを目標としてはいな
い。最も基本的な学力である「考える力」を養うことにある。 2012.09.10






第3章 科学 この世の全てを証明し尽した訳ではない(27)〜(35)


気を考える (27) 気や気功のように, 旧来の知識では理解できない不思議な現
象を前にすると, 頭から科学的ではないと否定する人と, 科学で割り切れない現
象と考える人がいる。どちらも科学とは何かという本質が, この情報化の時代に
あってもなお理解されていないのである。2012.09.16


気を考える (28) 「気や気功」を科学的でないと頭から否定する人は, 科学者
の習性を知らないのである。科学者という人間は, 科学的に証明されていない現
象が目の前に現れると, それを解明しようと, 子供のように夢中になって追いか
けるのである。寝食を忘れてもである。2012.09.16


気を考える (29) 1989年に世界中を巻き込んだ常温核融合ブームを覚えている
だろうか。夢のエネルギーである核融合が, 試験管の中でいとも簡単に成功した
というものであった。仮説らしきものもないのに, 世界中の科学者が熱狂的に実
験を重ねたのである。2012.10.17


気を考える (30) 常温核融合ブームは, 結局のところ真偽論争を経て終息した
が, 科学者という人間は, 「未知なるもの」に対して, いかに素朴に情熱を注げ
るものなのかを, 世に知らしめた。「気や気功」を科学的でないと頭から否定す
る人とは, 180度も方向が違うのである。2012.10.17


気を考える (31) 最近では, 万物に重さを与える「ヒッグス粒子」の発見がそう
である。50年ほど前にエディンバラ大学のヒッグスによって予言され, 世界中の
科学者が血眼になって探し求めてきた幻の粒子が発見されたのである。このとき
の科学者の興奮と熱気はすごかった。2012.11.01


気を考える (32) 気や気功のように, 旧来の知識では理解できない不思議な現象
を前にして, 頭から科学的ではないと否定する人は, いかにこの世には, 科学的
に証明されていない多くの現象があるかを自覚できないのである。自然や生命の
営みに, もっと目を向けて欲しい。


気を考える (33) 「気や気功」を科学で割り切れない現象と考える人は, 科学そ
のものがまったく理解できていないのである。科学とは何かというイロハを, ウィ
キペディアなどで調べて欲しい。世の中の営みは, すべてイロハ(基礎)の上に成り
立っているからである。


気を考える (34) そしてまた, 「あなたは科学を信じているの?」と陳腐な台詞
を吐く, オカルト好きな人間もいる。しかしながら, 脳の機能がもっと解明される
ようになれば, いずれ「守護霊」などは, 特殊な人間の幻覚に過ぎないとされる時
代がやってくるにちがいない。


気を考える (35) 科学とは, この世のもろもろの現象を, 客観的な事実として開
示するのであって, かつてヨーロッパで行われたように神の創造物などと云う価値
判断を伴うものではない。それと同時に, 科学はこの世のもろもろの現象を, すべ
て証明し尽くしたわけでもない。





第4章 科学と人間の生き方のと間にある摩訶不思議な境界 (36)〜(46)


気を考える (36) 価値判断とは, 科学そのものの中にあるのではなく, その客観
的な事実をどう捉えるかという人間の側にある。なぜなら, 世界は半永久的に存在
し続けたとしても, ひとりの人間は, やがてこの世から, はかなく消えてゆく宿命
を背負っている存在だからである。


気を考える (37) ひとりの人間が生きているということは, 自覚しようがしまい
が, そこに人生に対する価値判断が働いている。科学を, 「人間の生き方」という
物差しで計ってみると, 別の違った風景が見えてくる。科学的な事実と「人間の生
き方」とは, ストレートにつながらないのである。


気を考える (38) 科学的事実と人間の生き方とは, 必ずしもイコールで結ばれて
はない。なぜなら, 科学は世界の現象を客観的な「事実」として指摘するだけだが,
人間の生き方は, 限られた時間の中での, 道に迷いながらの一回きりの生の「実
践」であるからだ。


気を考える (39) 科学が証明した客観的な事実そのものには, 価値判断は伴って
いない。人間の生き方とは, 長いようで短い人生を, いかに過ごしたいかという,
人それぞれの「価値観」に基づいている。お金か, 物か, 地位か, 名声か, それと
も自己実現か, 心の安らぎか, 社会奉仕か。


気を考える (40) 1980年から2002年の間に死去された幕内経験の力士は, 死亡時
の年齢の単純平均は63.6才で、日本人男子の平均寿命よりかなり短い。この統計的
な事実があるからと云って, 力士への志願者がいないわけではない。太く短くも,
また生き方である。


気を考える (41) 人間は, 客観的に身体に悪いスポーツ(?)だと知っていても, あ
えて飛び込んでいく摩訶不思議な生き物である。そのときに下した価値判断とはな
んであろうか。土俵には「金も女も名声も埋まっている」などと言い放った親方が
いた。それも人の価値観である。


気を考える (42) 「太く短く」というのも人間の生き方ではあるが, ボクシングや
K-1などの格闘技では, 廃人にも通じるパンチドランカー(慢性外傷性脳損傷)になる
危険性が高い。ボクシングでは辰吉丈一郎氏, K-1では佐竹雅昭氏が有名である。貴
方ならどうする。


気を考える (43) 人間の「生」は, 限られた時間の中での, やり直しのきかない一
回きりの「実践」なのだから, 人それぞれの価値観に基づいた多種多様な生き方があ
る。ただし, 廃人へとも通じる, これほど大きなリスクを覚悟して, あえて飛び込ん
で行く人は, そう多くはない。


気を考える (44) それでも, リスク覚悟でK-1への道を進むのは, ファイトマネー
だけではなく, リングで相手を倒したときに送られる観客からの拍手喝采に, このう
えない快感を感じているからではないだろうか。スポットライトを浴びて, 華麗なス
テージに立つ歌い手のように。


気を考える (45) K-1ファイターが, リングのコーナーによじ登って, 勝利の雄叫び
をあげるとき, 脳内には快感ホルモンが溢れ出しているのであろう。大きなリスクを
知りながらも, 観客からの拍手喝采を受けたいという, この一点に人生を賭けている
ように見える 


気を考える (46) K-1ファイターの生き方は, 誰もが自分に問いかけるであろう「ど
う生きたらいいのか」, 「何が幸せなのか」という難問に対して, 明快な解答を下し
ている。その答えは単純明快であり, 人の生き方とは, 健康に悪いという「客観的
(科学的) な事実」をも超越するのである。





第5章 「どう生きたいのか」は「何をしたいのか」である (47)〜(57)


気を考える (47) 「どう生きたらいいのか」と自問するとき. K-1のチャンピオンに
なりたいとか, 社会貢献に身を投じてみたいとか, その「目的」に置き換えてしま
うならば, 心の迷いは消える。その答えを探して自問自答するならば, 泥沼に足を引
き込まれるのである。


気を考える (48) 若いときに, K-1のチャンピオンになりたいとか, 早々と人生の目
的を決められる人と, 「生きる意味」について思い悩み, 一歩も先に踏み出せない人
がいる。どちらが正しいか, どちらが幸せかということではない。DNAの違いなのだか
ら, 自然に任せるしかない。


気を考える (49) 若いときに, 「生きる意味」について思い悩んだ人は, 哲学や宗教
などの書物を紐解いて, その答えを懸命に探し求めたことであろう。漠然とした不安
の中で生きる「青春時代」とは, 歌詞(森田公一)にもあるのように「道に迷っている」
ばかりの日々なのである。


気を考える (50) 「生きる意味」を自分に問うとき, 「なぜ私は生きているのか」と
いうことと, 「どう生きたいのか」という, 二つの異なる側面がある。前者は「自分と
は何者なのか」という根源的な問いであり, 後者は「何をやりたいのか」という人生の
目的に関する問いである。


を考える (51) しかしながら, 「なぜ私は生きているのか」と, 自分に問いかけること
は, 大切なことではあるが, その答えを見つけることはできない。なぜなら, 私たち人間
もネコや犬と同様に, オスの精子とメスの卵子が, たまたま偶然に結合して生まれた存
在だからである。


気を考える (52) 人間は, 何かの目的をもって生まれてきたわけでもないし, 何か大き
なものが, 己を助け導いてるわけでもない。それは, 大海の荒海に放り出された羅針
盤のない漂流者のようなものである。マストにしがみついて, 生き残るべき進路を自分
で探すしかないのである。


気を考える (53) 「生きる意味」について思い悩み, 一歩も先に踏み出せない人がい
たとしても, いつまでもそこに留まっていることはできない。地球の自転という客観的な
時は, 立ち止まっている人間を, じっと静かに待っていてはくれないのである。いつかは
踏み出すしかない。


気を考える (54) 「なぜ私は生きているのか」という問いは, いずれ「どう生きたいのか」
というテーマに向かわざるを得ない。早々と人生の目的を決められた人とは, 一周遅れ
となるのだが, それもまた人の生き方である。これから先の人生航路にどんな影響を与
えるかは誰も知らない。


気を考える (55) 科学は, 白か黒かに割り切れるが, 人生はそういうわけにはいかない。
江戸時代のように社会の秩序が固定され, かつ世襲の世の中であるならば, 人生に選
択の余地はないのだから, 迷うこともない。現代は, 多くの選択肢があるうえに, その一
寸先も読めないのである。


気を考える (56) 「どう生きたいのか」という問いは, ポジティブな人間であれば, 結
局のところ, 「何をやりたいのか」に行きつく。ある種の仕事を通じて社会貢献をした
いとか, 愛する人と結婚して幸せな家庭生活を送りたいとか, 巨万の富を築きたいと
か, 人それぞれである


気を考える (57) 「何をやりたいのか」という問いに対する回答の根底には, 遺伝子
や環境などを含めて形成されてきた自分なりの価値観が働いている。人は, 何かの目的
をもって生まれてきたわけではないのだから, 自分なりの価値観に基づいて生きている
ことの意味付けをせざるをえない。






第6章 社会的な肩書きを失えば, みんな「ただの人」(58)〜(72)


気を考える (58) 「やりたい事」が何もないまま, 人生を過ごしてしまうのは大いなる不
幸だと思う。フランス革命でギロチンの露と消えたマリー・アントワネットは, 「退屈こそ
恐怖」と言っていたが, やはり「やりたい事が何もない」ことは, ポジティブな人間にと
って最大の恐怖であろう。


気を考える (59) 会社人間の中には, 退職した後に「やりたい事」を見つけられないまま,
年を重ねてしまっている人も少なくない。還暦を過ぎた人が, ただ意味もなく年を重ねると
いうことは, 病気への不安と死への恐怖が, 目の前にちらつくだけである。まさに仏教で
いうところの生・病・老・死の「四苦」の世界である。


気を考える (60) やりたい事はたくさんあったほうが人生が豊かでいい。現役を退いた
としても, 食事だけが唯一の楽しみというのでは, 人生あまりにも寂し過ぎる。人は, 興
味のもてる対象を見つけ出し, 時間の経つのを忘れてしまうほどに, 夢中になれるなら
ば, このうえなく幸せに違いない。


気を考える (61) 私の個人的な話であるが, 若い頃から野菜作りが大好きで, 大学を辞
めたら, 自給自足の生活を送りたいと願っていた。残念ながら事情があって, 田舎暮らし
の生活はできなかったが, 植木屋になってしまった。大学講師から植木屋への63歳の遅
すぎる挑戦であった。


気を考える (62) どうして「きつい」「汚い」「危険」の3Kの仕事を選んだのかと言われ
そうであるが, 植木屋を選んだ理由は, 野菜作りもそうだが, 物を言わぬ庭木という生
命と会話しているのが楽しいからである。植物も人間と同様に, よりよく生きようとする個
性をもった生命体なのだ。


気を考える (63) 植木職は経験も知識も技術も無いゼロからの出発であった。野菜作
りは趣味の領域であったが, 植木剪定は, お客からお金を戴くプロの世界である。「石
の上にも三年」というが, 二年間は親方の剪定作業を横目で見ながら, 後片付けと掃
除の毎日であった。我慢, 我慢である。


気を考える (64) しかし, 新しいものへの挑戦とは, なんと楽しいことであろうか。自分
の世界を広げてくれる, いくつもの新しい発見がある。植物は, その土地に根を張って生
きることを運命付けられており, 自由に動き廻われる動物の営み方とは違うが, よりよく
生き続けようとする数々の智恵がある。


気を考える (65) 「植物は人間の心を感じ取って」反応しているとする, 嘘発見器の第
一人者で、元CIAのクリーヴ・バクスター氏の話が, 本当であるのか知らない。しかし,
木によじ登り触れ合いながら剪定作業をしていると, まるで人間と同様に, 意志をもっ
た存在かのように映る。


気を考える (66) その意志とは, 植物にクラシック音楽を聞かせると, 綺麗な花を咲か
せるという話ではない。母親が赤ちゃんに生命の躍動を感じるように, 植木屋もまた,
生き続けたいとする庭木の意志を読み取ることができるのである。植木屋のみ知ること
かも知れない。


気を考える (67) 植木屋の仕事は, サラリーマンと違って毎日あるわけではない。
三日働いて四日休むというのが, おおよそのスケジュールである。三日間は自然の下
で身体を動かし, 四日間は室内で机に向かうなどして過ごす。還暦を過ぎた人間にと
って, 心身ともに健康的な過ごし方である。


気を考える (68) 経験も知識も技術も無く, 地下足袋さえ履いたこともない植木職
も, 今年で五年が過ぎた。辛抱したかいあって, 今では根気のいる五葉松や黒松の
剪定も任せてもらえるようになった。還暦を過ぎてから, また新しい世界をひとつ加
えることができたことが, なによりも嬉しい。


気を考える (69) 「国会議員は選挙に落ちれば, ただの人」と云われるが, 社会的な
肩書きを失えば, 誰もが「ただの人」である。さらに云えば, 会社などの組織から離れ,
過去の経歴や栄光を引きずって生きるならば, 社会からも孤立した「ただの老人」とい
う悲しい現実が待っている。


気を考える (70) 人はどんな事柄でも, 同じ繰り返しで生きていると, 脳細胞の働き
が衰えるだけでなく, 生きている実感もまた薄くなっていくものである。老体に鞭打っ
てでも, 新しい分野に挑戦するならば, 脳が活性化するだけでなく, 友人の輪を拡
げ, 世界が前向きに見えてくるのである。


気を考える (71) 現役で苦労している人は, 退職したら悠々自適な年金生活が待
っているとか, 釣り三昧の世界に浸れるとか, 大いなる夢を描いているだろうが, 解
放感を楽しんでいられるのは, わずか三ヶ月間だけである。やがて, 「暖簾に腕押
し」という無力な感覚に悩まされることになる。


気を考える (72) 人生や世界をポジティブに, あるいはネガティブに捉えるかは,
その人の幸福度と深く関係している。給料前に「あと一万円しかない」と嘆く人と,
「まだ一万円ある」とほくそ笑む人の違いである。客観的な事実とは関係ない。人
生や世界を前向きに捉えたいものである。





第7章 過去と未来 希望と欲望 一瞬に消し去るものとは (73)〜(75)


気を考える (73) 人生や世界をボジティブに捉えるられるかどうかは, 自分の健康
と大いに関係している。健康とは, 魚にとっての水, 人間にとっての空気と同じで,
失って初めてその大切さに気が付くものである。しかも, 人がよりよく生きるために
は, 最も大切にしなければならない基本である。


気を考える (74) 多様化, 多元化した現代の社会にあって, 何に価値を置くかは
人それぞれである。しかし, どんな価値観やどんな人生観を描いていたとしても,
またどんなに社会的地位や金銭面で恵まれていたとしても, 病気はそのすべての
価値を色あせたものとしてしまう。


気を考える (75) 病気から連想される結末としての死は, たとえば羨望の眼差しを向
けられてきた高い社会的地位や, 有り余る財産とも縁が切れるだけでなく, その人の
「過去と現在」と「未来」, そして「希望」と「欲望」をも一瞬に消し去ってしまうの
である。だから健康な今が大切なのだ。






第7章 過去と未来 希望と欲望 一瞬に消し去るものとは (73)〜(75)


気を考える (73) 人生や世界をボジティブに捉えるられるかどうかは, 自分の健康
と大いに関係している。健康とは, 魚にとっての水, 人間にとっての空気と同じで,
失って初めてその大切さに気が付くものである。しかも, 人がよりよく生きるために
は, 最も大切にしなければならない基本である。


気を考える (74) 多様化, 多元化した現代の社会にあって, 何に価値を置くかは
人それぞれである。しかし, どんな価値観やどんな人生観を描いていたとしても,
またどんなに社会的地位や金銭面で恵まれていたとしても, 病気はそのすべての
価値を色あせたものとしてしまう。


気を考える (75) 病気から連想される結末としての死は, たとえば羨望の眼差しを向
けられてきた高い社会的地位や, 有り余る財産とも縁が切れるだけでなく, その人の
「過去と現在」と「未来」, そして「希望」と「欲望」をも一瞬に消し去ってしまうの
である。だから健康な今が大切なのだ。






第8章 運動は, 寿命を伸ばすのか, それとも縮めるのか (76)〜(85)

気を考える (76) 「人生いろいろ」ではあるが, 誰もが健康な今こそが大切であ
り, できれば長寿でありたいと願うであろう。ところが, 何が身体にいいのか悪
いのか, 何が寿命を伸ばすのか縮めるのかについては, それほどすっきりと分か
っているわけではないのである。生命は複雑なのだ。


気を考える (77) その中でも最も意見が分かれるのは, 運動についての功罪であ
る。運動不足が心肺機能を弱め, 手足の筋肉を衰えさせるのは, 重力に逆らって
生きているのだから, 誰もが経験的に知っている。運動は人の健康によいと思える
のだが, しかし運動量については諸説紛々である。


気を考える (78) 激しい運動を日常的に行うスポーツ選手の場合, それが身体に
いいのか悪いのかについては, 現在のところ正解があるわけではない。あるいは,
スポーツと平均寿命との関係についても, 相反する二つ意見があって定説はない
のである。スポーツ産業との絡みなのだろうか。


気を考える (79) 英国の医学雑誌「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル」
に、オリンピックの歴代全メダリストは, 一般の人に比べて2年10ヶ月寿命が長い
とする研究結果が発表されている。全メダリストといえば, ママさんバレーとは
違い, 日常的に極限まで肉体を酷使する人である。


気を考える (80) 全メダリストが一般人より長生きだとするヨーロッパ人の主張
に対して, 日本では体育系と文科系の卒業生を学科別に100年以上も追跡調査
した結果がある。それによれば, 体育系は文科系よりも寿命が6.2歳短いそうで,
激しい運動を長期に続けたためだとしている。


気を考える (81) それでは, 運動量としてははるかに軽いジョギングでは, どの
ような意見があるか。デンマークの心臓病の専門医による35年にわたる追跡調査に
よると, 定期的にジョギングをする人は, そうでない人と較べると, 寿命が男性で
6.2年伸びたと云う。誰もが走りたくなるかも。


気を考える (82) ジョギングの効果を主張する肯定派に対して, ジョギングの害を
説く否定派は, ジョギングの教祖と呼ばれたジェームズ・フィックスが、52歳の
若さでジョギング中に心筋梗塞で急死した話を例に出すことが多い。だから害なの
だと。生命体も社会構造も複雑系なのである。


気を考える (83) マラソンやジョギングが寿命を縮めるという仮説の根拠は, 激し
い運動を長い時間にわたり行うことで, 体内に活性酸素を大量に取り込み, 有害な
過酸化脂質を発生させて, 細胞を傷つけるということにある。過酸化脂質は, 老化
を早め, 動脈硬化や心筋梗塞などを誘発するという。


気を考える (84) 活性酸素は, 人体にとって毒ではあるが, 体内にはその毒を中和さ
せるスーパーオキシドディスムターゼなどが存在する。問題は, 活性酸素と抗酸化シ
ステムのバランスであり, どの程度の運動がこのバランスを崩し, 健康に影響を与える
かは十分に解明されていないという。


気を考える (85) どの程度の運動量が, 活性酸素と抗酸化システムのバランスを崩
すのかが, 解明されていないので, 今なおマラソンもジョキセングも盛んである。もし
その境界線が, 統計学的ではなく, 科学的・生理的に実証されたならば, スポーツ界は
蜂の巣を突いたような騒ぎになるかも知れない。

第7章 過去と未来 希望と欲望 一瞬に消し去るものとは (73)〜(75)


気を考える (73) 人生や世界をボジティブに捉えるられるかどうかは, 自分の健康
と大いに関係している。健康とは, 魚にとっての水, 人間にとっての空気と同じで,
失って初めてその大切さに気が付くものである。しかも, 人がよりよく生きるために
は, 最も大切にしなければならない基本である。


気を考える (74) 多様化, 多元化した現代の社会にあって, 何に価値を置くかは
人それぞれである。しかし, どんな価値観やどんな人生観を描いていたとしても,
またどんなに社会的地位や金銭面で恵まれていたとしても, 病気はそのすべての
価値を色あせたものとしてしまう。


気を考える (75) 病気から連想される結末としての死は, たとえば羨望の眼差しを向
けられてきた高い社会的地位や, 有り余る財産とも縁が切れるだけでなく, その人の
「過去と現在」と「未来」, そして「希望」と「欲望」をも一瞬に消し去ってしまうの
である。だから健康な今が大切なのだ。






第9章 厚労省推奨 一日一万歩のウォーキング健康法 (87)〜(97)

気を考える (86) 活性酸素と抗酸化システムの問題を離れて, もっと身近な西洋医
学的な健康法について目を移すと, 常に語られることは, 十分な睡眠・バランスのよ
い食事・適度な運動, そしてストレス解消という常識的なテーマである。古くから受
け継がれてきたような, 特別な鍛錬法は見当たらない。


気を考える (87) 西洋医学的な健康法で, 能動的なものがあるとすれば, それは運
動である。マラソンやジョギングもあるが, 厚生労働省は, 手軽でリスクの少ないウ
ォーキングを推奨している。一日一万歩のウォーキングは, 肥満, 動脈硬化, 高血圧
症, そして骨粗鬆症などのの解消に効果が高いとされている。


気を考える (88) 厚生労働省が推奨している一日一万歩のウォーキングの根拠
は, 一人一日に摂取するカロリーと, 一日に消費するカロリーの差, つまり供給と
需要のアンバランスから導き出されている。日本人が一日に取るカロリーは, 平均
すると2200Kcalとされているのだが。


気を考える (89) 日本人が一日に取るカロリーは, 平均すると2200Kcalとされて
いるのに対して, 生命維持に必要な基礎代謝はおよそ1300〜1500kcal, それに
加えて日常生活を営むために600〜800kcalが消費されるので, 1日当たり100〜
300kcal余ってしまうというのである。


気を考える (90) 100〜300kcalというのは, 脂肪に換算するとわずか11〜33g
なのであるが, 積もり積もると一ヶ月で110〜330g, 恐ろしいことに一年では, 4
〜12sにもなってしまうのである。一年で10sもの体重の増加は, 標準的な体
型の人でもお腹ぽっくりとなるのである。


気を考える (91) 肥満を避けたいのであれば, 余った100〜300kcalのカロリー
を消費する必要に迫られる。平均体重の人が, 1分間歩くと3.3kcal消費される
ので, 11g(100kcal)の脂肪を燃焼したければ, 30分歩ければよいことになる。
同じく33gを燃焼したければ90分なのである。


気を考える (92) 1分間を100歩のペースで歩くとすれば, 最大で9000歩=90分
となるのだが, 覚えにくいので一日=1万歩としたのである。一日=1万歩の背景
には, 交通機関や便利な器具の発達で, それを享受している現代人が, 身体を動
かさなくなったという事情がある。


気を考える (93) 「一日=1万歩」説は, 食事の摂取と消費のバランスを崩し
ている人々にとって有効であるが, 腹八分目の食事を実行し, 家庭菜園など
で小まめに身体を動かしている者にとっては, 他人事のような話である。人力
で土を耕すのは, 重労働であるからだ。


気を考える (94) 「一日=1万歩」説は, 建設現場の作業員のように, 日々肉体
を酷使している人々にとっては, 無縁というより害を与えかねない存在でもある。
彼らにとっては, 身体をいたわる休息と睡眠が最大の健康法である。条件が変
われば, 対処法も変わるのである。


気を考える (95) 「一日=1万歩」のウォーキングを, 家事労働で代替させるこ
とは難しい。洗濯機や掃除機, 炊飯器や冷蔵庫などの電化製品が整い始めた
1960年代以前の家事に戻ることはできない。板敷きの長い廊下を雑巾がけして
いるのは, いまや仏教の修行僧だけである。


気を考える (96) 「一日=1万歩」のウォーキングという健康法は, もともと家事
労働などで消費できていたカロリーが, 現代文明の恩恵もあって, 消費し切れな
くなったという事情から生み出されてきた。ということは, 西洋医学的なこの健康
法は, 日常生活の延長上にある平凡な方法と言える。





第10章 東洋の健康法 非日常世界での鍛錬法 (97)〜(105)


気を考える (97) 西洋医学的な健康法が目指すものは,十分な睡眠・バランスの
よい食事・適度な運動, そしてストレス解消であるが,どれも日常生活の範囲に留
まっており,私も当たり前のこととして実行している。西洋医学には, このほかに免
疫力を高める特殊な鍛錬の方法がないのである。


気を考える (98) 西洋医学的な健康法に対して, 気功やヨーガは,日常生活から
脱した, 非日常性の世界で行われる健康法である。というのは, 鍛錬するときの姿
勢が, 日常生活では決してありえない形だからである。気功の場合には馬歩椿
を, ヨーガでは結跏趺坐という姿勢をとることになる。


気を考える (99) 一指禅功における「馬歩椿」という姿勢を, 気功に明るくない人
に説明するとすれば, こんな言い方ができよう。馬にまたがった騎手が, 膝を曲
げ腰を浮かしながら, 手綱を握る姿勢と似ている。あるいは, スキーのジャンプ
台を滑走するときの選手の姿勢に似ている, と。


気を考える (100) 一指禅功の姿勢には, 虚歩や弓歩というのもあるが, これで
始まり, これで終わるという基本姿勢が「馬歩椿」である。両足を肩幅に開き, 膝
を曲げて腰を低くし, 両腕を平行にして前方に突き出す。細かいこと抜きにす
れば, 「馬歩椿」とはこれだけのことである。


を考える (101) 似ていないのは,「馬歩椿」という姿勢を保つ時間の長さであ
る。スキーのジャンプ台を滑走している時間は, わずかの数秒であり, 競馬の一
レースでさえ, 数分でしかない。一指禅功の基本姿勢である「馬歩椿」の場合は,
通常30〜40分間, この姿勢を保つのである。


気を考える (102) この馬歩椿の姿勢を,下半身は微動だにせず,上半身はで
きうるだけ力を抜いて立つ。気功では流派を問わず普遍的な「上虚下実」とい
う姿勢である。膝を曲げて腰を低くし立つと,全体重は大腿四頭筋とふくらはぎ
にかかる。だから初心者は, 足腰が鍛えられるまで辛いのである。


気を考える (103) 初めて馬歩椿の姿勢を体験する人は, 「特にどうってこと
もないよ」と軽いノリで始めるが, 十分ほどすると両脚が震えはじめ, そして終
了まで, 歯をくいしばるほどの我慢を強いられるのである。縦横無尽に走り回
るサッカーの選手さえ, 馬歩椿の姿勢は辛いと云う。


気を考える (104) サッカーの選手が,「馬歩椿」の姿勢を辛いと感じるのは,
この姿勢が初めから終わりまで, 大腿四頭筋とふくらはぎだけに負担をかけ
続けるからであろう。どんなスポーツでも, 筋肉の緊張と弛緩があるのだが,
馬歩椿は, ただただ下半身に負担をかけ続けるのである。


気を考える (105) 人間の身体は, 睡眠中でも寝返りを打つように, 同じ姿
勢を嫌うものである。それをあえて, 大腿四頭筋とふくらはぎに負担をかけ
続けることで, 日常の肉体を超えて, 身体の内側にある変化を生じさせるの
である。馬歩椿とは, 日常生活ではありえない姿勢なのだ。






第11章 気功実践者と傍観者との間にある壁 知識と実践 (106)〜(115)


気を考える (106) 馬歩椿の姿勢をとり続けることで, 日常の肉体を超えて,
身体の内側にある変化を生じさせるのであるが, これを体験できた人と,
傍観者として眺めてきただけの人との間には, 行く手を遮る二つの壁がある。
一つは知識と実践, 二つは日常と非日常の世界の間の壁である。


気を考える (107) 知識と実践とは, 「知っていること」と「実際にやること」
であり, 換言すれば「頭で考えること」と「身体を動かすこと」である。特に,
鍛錬した結果を身体に覚え込ませる, 気功のような場合には, 実践を伴
わない知識は, ほとんど無価値であるか, 有害である。


気を考える (108) 実践を伴わない知識が有害とは, その一例を挙げると,
品川嘉也「気功の科学」(光文社)がある。品川氏は, この本のプロローグの
中で「気を体で感じる方法」として, 剣指で脳に向けて気を送っいるイラス
トを載せているが,これは絶対にやってはいけないタブーなのだ。


気を考える (109) なぜなら, 指先から発功する剣指の強い外気で脳細
胞を傷つけるからである。品川氏によれば, 1989年に気功に関する日
中交流セミナーに参加したとき, 現地の気功師から直接教えてもらった
という。気功では, 聞きかじりの知識は「百害あって一利なし」なのである。


を考える (110) 知識と実践との間の壁の一つに, 実践を伴わない知
識には, 有害な情報が含まれている一例として, 品川嘉也「気功の科学」
(光文社)を挙げてみた。さらに, 知識と実践との間には, 「頭で考えるこ
と」と「身体を動かすこと」という, 超えがたいもう一つの壁がある。


気を考える (111) さらに云うならば, 知識と実践とは「知っていること」と,
それが「できる」かということでもある。私個人の話をすれば, 庭木の剪定を
するとき, まず庭木の知識が, 次に剪定の技術が必要となる。問題は,知
識と技術が必ずしもイコールで結ばれていないことである。


気を考える (112) 剪定のテキストには, まず切り落とす枝として,交差枝
や平行枝, 立枝や下り枝などと書かれている。植木の初心者は, これらの
テキストを暗記してから, 庭木に梯子を架けて登るのだが, どれがどれだ
かまったく分からず, 情けないけど樹の上で混乱するばかりである。


気を考える (113) この剪定の知識と技術,「知っていること」と「できるこ
と」との間にあるギャップは, 現場で経験を積めば解消される事柄であ
る。剪定という行為は, 庭のある家庭なら誰もが経験していることであり,
上手い下手はあったとしても, ごく当たり前の日常生活の延長上にある。


気を考える (114) 「知識と実践」とのギャップは, 検証できる現場=現実
世界があれば, いずれは解消されることだろう。ところが,ネットの世界
では検証する場がないので, 知識と実践,「知っていること」と「できるこ
と」が混同されやすく, すべて分かった気分になりやすいのである。


気を考える (115) 庭木の剪定でさえ, 「知っていること」と「できること」
との間には, 4年から5年間ほどのギャッブがある。それでは, 知識と実践と
いう点からみて, 気功について関心はあるけれど, トレーニングするほ
どの意欲がないという一般の人々の心の中はどうなっているのだろうか。





第12章 気功=ブラシーボ効果説 気功師=早老・早死説 (115〜120)


気を考える (116) 理解不能な世界が目の前に現れると, 誰もが頭の
中がモヤモヤし,心がイライラするものである。それがビックバン以前
の宇宙の謎であるならば, あまり深入りせずに忘れることが一番であ
る。ところが,気功は身近な身体に関することであるから, 無視するわけ
にはいかない。


気を考える (117) 気功について関心はあるけど, トレーニングするに
は一寸しんどいと感じたとき, 人は頭の中で自分に都合のいいように,
こんな論理操作をするものである。気功は, なんだかんだと健康効果
を謳うが, 所詮は偽薬と同じようにプラシーボ効果に過ぎないと断定
するのである。


気を考える (118) 気功に対して懐疑的な人は, 気功=プラシーボ
効果と決めることで, 頭の中のモヤモヤと, 心のイライラを解消する
のである。理解不能な世界が目の前でちらちらしていると, 精神衛
生に悪いのだ。思考停止することで, 謎は一つ解決したとして安心
できるのであろう。


気を考える (119) もう一つのパターンは, 気功による健康効果を認
めてはいるが, トレーニングするには一寸しんどいと感じている人は,
こんな論理で自分を納得させるのである。気功師の中には早死にす
る人が多いうえに, 顔を見ると例外なく年齢よりも老けているだないか
というのだ。


気を考える (120) 現在,気功に関して正反対の立場から二つの懐疑的
な主張が見られる。一つは気功の健康効果そのものを否定する「気功
=プラシーボ効果・暗示」説と, 気功の治療効果を認めたうえで, 気
を出すことによる内気の消耗の結末としての「気功師=老化・早死」
説である。






第13章 日常生活の間に横たわる超え難い壁 (121〜126)


を考える (121) この二つの懐疑説のうち「気功=プラシーボ効
果・暗示」説を主張する傍観者と, 気功鍛錬を日課としている実践
者の間には,「知っている事」と「できる事」とは別に, もう一つの
越えがたい壁がある。それは, 誰もが体験したことのない非日常生
活との間の壁である。


気を考える (122) 格言すれば, 誰もが日々経験している日常生活
と, 誰もが体験したことのない非日常生活との間には, 野坂昭如流
(黒の舟歌)に云えば, 男と女の間以上に深くて暗い川があるのだ。
過去の経験に照らして理解できる事柄と, 体験してみなければ分から
ない未知の世界がある。


気を考える (123) 日常生活の世界と非日常生活の世界というと,
ITを駆使したバーチャル空間での体験を想像するかも知れないが,
ここには両者の間に横たわる壁などは存在しない。そこに身体を
運べばいいだけである。ところが, 超え難い壁は私たちの身近な
ところに存在しているのである。


気を考える (124) 色盲にもいろいなタイプがあるらしいが, 私
の友人に全色盲の人がいる。彼の網膜には, この世のすべてがモノ
クロに映っていると云う。そんなわけで, 風景などの話していると
き, どうにも通じないことがある。彼が見えている世界と, 私が見
ている風景とでは違うのだ。


気を考える (125) 「食」をテーマとしたテレビ番組を見ていて,
進行役を務めるレポターと, 私たち視聴者との間には, 埋めがた
い溝があることを感じてしまう。マイクを片手にレポーターが,
屋台に並ぶB級グルメを食して, これは「うま〜い」と言っても,
私の口の中には何もないのである。


気を考える (126) カエルの肉を食べて, 鶏肉と似ていると言えば
, 視聴者とて想像できないことはない。しかしながら, レポターで
さえ今まで口にしたことのない味を, 茶の間にいる視聴者に伝える
ことは不可能である。経験している人と, それを見ているだけの人
との間に横たわる溝である。






第14章 気功実践者と傍観者との間にある壁 気感の有無 (127〜132)


気を考える (127) 日常生活の中でさえも, 両者の間には越えがたい
壁が存在しているのであるから, 一指禅功という特殊な非日常生活の
世界で, 長年にわたり鍛錬を続けてきた人と, 書物やネットの世界で,
気功を知識としてのみ知りえた人との間には, 越えがたい壁があるの
は当然である。


気を考える (128) 全色盲の人と, そうでない人との間では, 色
彩についての議論は成り立たない。それと同様に, 一指禅功とい
う非日常生活の世界で鍛錬してきた人と, 日常生活で蓄積してき
た常識を絶対視している人との間にも, お互いに意見がすれ違う
だけで議論は成立しない。


気を考える (129) 両者の間に議論が成立しない理由は, きわめて
単純である。一指禅功の鍛錬を続けた人は, それまで経験したこと
のない不可思議な現象が, 自分の身体の中で発現し, それらを視覚
と触覚で確認できるからである。しかし, 知識だけの人は, 身体に
何の変化も起こっていない。


気を考える (130) 気功に関して両者の間で議論が成立しない理由
は, 「食」をテーマとしたテレビ番組で, レポーターでさえ今まで
口にしたことのない味を, 茶の間にいる視聴者に伝えることと似て
いる。レポーターは, 未経験の食物を味わっているけれど, 視聴者
の口の中には唾液だけしかない。


気を考える (131) 気功を知識としてのみ知っている人は, 鍛錬
に伴う不可思議な現象を体験していないのであるから, 両者の間に
議論がかみ合うはずがない。レポーターが味わっている未経験の
味覚について, 視聴者がうまいのまずいのと感想を言えるわけが
ない。気功も同じである。


気を考える (132) 気功とは, 非日常世界においての鍛錬である。
サッカーや野球などのスポーツのように, 日常生活の延長におい
ての鍛錬ではない。巨人の王選手は球が止まって見える, 川上監
督は球の縫い目が見えると言っていたが, それは日常の中で鍛え
られた動体視力の賜物である。






第15章 日常生活における「プラシーボ効果」とは (133〜138)


気を考える (133) 気功とは, 非日常の世界での鍛錬, 言葉を換
えていえば, 非日常の肉体を鍛錬することである。身も心も日常
生活の中にどっぷりと浸かっている人は, 気功とは「プラシーボ
効果」に過ぎないと言いたがるが, それは外から見ているだけで
「群盲象を評す」以前の段階でしかない。


気を考える (134) とはいえ, 日常生活においての「プラシーボ
効果・暗示」を否定するものではないし, 気功体験時におけるそ
れらの存在を全面的に否定するものでもない。「病は気から」と
いうように, 人間の心身は現代科学をもってしてもそのすべてを解
明できないほどに複雑怪奇であるからだ。


気を考える (135) プラシーボ効果とは「ウィキメディア」によ
れば, 「偽薬を処方しても、薬だと信じ込む事によって何らかの
改善がみられる事を言う。この改善は自覚症状に留まらず、客観
的に測定可能な状態の改善として現われることもある」というが,
換言すれば暗示と思い込みということだ。


気を考える (136) プラシーボ効果という現象が, 科学的に証
明されるまでもなく, 人間は第三者からの「暗示と思い込み」によ
って, 心身に大きな影響を及ぼすということは, 誰もが経験してい
ることである。暗示を受けやすい人と, そうでない人がいたとして
も, それは相対的なものである。


気を考える (137) 人は誰もこの社会生活から切り離され, 孤立し
て生きているわけではないのだから。もし貴方が周囲の人に, い
つまでも若いねと褒められるならば, それがたとえお世辞であったと
しても, 背筋がぴんと伸びて足取りも軽くなるというものである。特
に女性であるならば余計であろう。


気を考える (138) その反対に顔色が悪いと指摘されて, どこか身
体が悪いのではないかと思い込み, 心が沈んで食欲がなくなり,
倦怠感さえも覚えることもある。胃腸などの消化器系は, ストレスを
受けやすく, かつストレスにきわめて弱いからである。心と身は, 一
体不可分なのである。






第16章 気功の鍛錬時における「プラシーボ効果」とは (139〜148)


気を考える (139) プラシーボ効果を「暗示と思い込み」とするなら
ば, 日常生活の中だけでなく, 気功の鍛錬過程でも, この効果を
大いに利用しているのである。それは, ほとんどの流派がそうである
ように, 鍛錬する上での大原則としている調身・調息・調心という
「三調技術」の中に見られるのだ。


気を考える (140) 気功を経験したことのない人のために, 「三調技
術」について簡単に解説すると, 「調身」は正しい姿勢と動作, 「調息
」は呼吸法, 「調心=意念」は意識の持ち方ということになる。ほとん
どの流派は, この三つの組み合わせによって, トレーニング法(功法)
が作られている。


気を考える (141) プラシーボ効果を「暗示と思い込み」とするなら
ば, 気功の「三調技術」のうち調心=意念=意識は, プラシーボ効果
そのものである。ほとんどの流派で, この「プラシーボ効果」を利用し
なければ, 気功の鍛錬法は成立しない。世間で云うほど, プラシー
ボ効果は悪者ではないのである。


気を考える (142) 気功と云うと, 手を触れずに相手を動かす外気導
引や, 怪しげな気功治療などを思い浮かべるが, それは結果としての
産物であって, 非日常的な世界で行う特殊な鍛錬法こそがキモなので
ある。すべての原点である鍛錬法から, 気功と「プラシーボ効果」と
の関係を具代的に探ってみたい。


気を考える (143) 気功の「調心=意念」が, 「プラシーボ効果=暗示と
思い込み」に, どのように関係しているかを, 最も単純な例として「三線
放松功」で点検してみる。 「放松」とはリラックスの意味で, 心身共に
リラックスさせる功法を指し, 心身症, 冠状動脈硬化, 高血圧症など
に効果があるとされている。


気を考える (144) 「三線放松功」は立式の姿勢で, 頭頂⇒頭の両側
⇒首の両側⇒両肩⇒両腕⇒両手という各バーツをつなげた線を想い描き,
この部分を順次リラックスさせていく方法である。一つのパーツでは,
呼気のとき意念を使いながらリラックスを心に浮かべ, そして吸気の
とき次のバーツへ意識を移動させる。


気を考える (145) 「三線放松功」は, 三線ということであるから, これに
身体の正面と背面の線を加えて三線となる。この三線を意念=意識を
使いながら, リラックスさせることによって, 心身共に松放に導くのであ
る。この意念=意識こそが, 「暗示と思い込み」であり, 「プラシーボ効果
」そのものなのである。


気を考える (146) 気功とは, 「プラシーボ効果」を利用した鍛錬法で
あるということができる。意念=意識による自分自身への暗示と思い込
みである。「プラシーボ効果」は, 最近になって科学的に証明されるよう
になったのだが, 気功の鍛錬法は, 科学よりもはるか数千年も前に実
践されているのである。


気を考える (147) 科学を万能だと信じている人は, 「気」の存在が今
なお科学的に証明されていないから, 眉唾ものだと考えているようだが,
その時代の科学が, その時代に知られている現象を解明できるとは限
らないのである。測定機器の進歩によって, 環境ホルモンの存在が明
らかになったように。


気を考える (148) プラシーボ効果が, 人間の心身に好影響をも与え
るのであれば, これを利用して人生をより充実させ, より楽しくより
明るく生きる方法があるかもしれない。ネガディブな人生観から, 自
己暗示による明るいイメージを描くことによるポジティブな生き方へ
の転換である。






第17章 プラシーボ効果が入る余地のない「一指禅功」 (149〜155)


気を考える (149) ほとんどの流派がその鍛錬法において, 意念=
意識による「プラシーボ効果」を利用しているが, 中国気功三千流派
(中国では一万流派とも)のなかには意念=意識を使わない例外的
な流派も存在している。それが少林寺の「少林内勁一指禅」, 通称で
は一指禅功と呼ばれている流派である。


気を考える (150) 一指禅功は, 意念=意識を使わないだけでなく,
呼吸法さえない。つまり, 調身・調息・調心という「三調技術」のう
ち, 調身だけで経絡内の気の流れを調節できるのである。調身とは,
正しい姿勢と動作のことであり, この身体の型と動きだけで一指禅
功の鍛錬法は作られている。


気を考える (151) 気功における偏差の最大の原因は, 気功の入門書
を読んで行う独学という練習法にある。そして, 次に起こりうる偏差
の危険は, 強すぎる意念や呼吸法で生じるめまいや頭痛、胸苦しさ
や胸痛などがある。一指禅功は, 意念や呼吸法を用いないが故に, 偏
差の極めて少ない流派と云える。


気を考える (152) 一指禅功は, 意念や呼吸法を用いず, 調身だけで
鍛錬法が作られているので, その結果として偏差が極めて少なく, 初
心者も安心してアプローチできるというものである。一指禅功を中国
の秦渝生老師に, 十年間指導を受けてきたが, 私も含めて一度も偏差
と出会ったことがない。


気を考える (153) 一指禅功における身体の型とは, 両足を肩幅に開き,
膝を曲げたまま静止させ, 上半身を少しだけ前傾させながら, 両腕を
平行にして前方に突き出す「馬歩椿」の不動の姿勢のことである。そ
れは, 鐙(あぶみ)に足をかけ, 両手で手綱を引く, 馬にまたがった騎
手の姿にも似ている。

気を考える (154) 一指禅功は, 馬歩椿という身体の型に, 両腕と指
の動きを加えて, 全体の鍛錬法が作られている。換言すれば, 馬歩椿
の姿勢を保ちながら, 腕と指を動かすだけという, 実にシンプルな鍛
錬法である。よき指導者に従って練習する限り, 副作用を伴う偏差な
どが起こりようがないのである。


気を考える (155) 一指禅功は, 膝を曲げて立つ「馬歩椿」の姿勢を
保ちながら, 両腕と指を曲げる(はん指)だけで, 経絡内の気の流れを自
在にコントロールできるのである。一指禅功は, シンプルな鍛錬法
ではあるが, 中国気功三千流派の中でも三本の指に数えらる, 気功師
になるための気功でもある。






第18章 馬歩椿が身体に与える影響 血液循環の効果 (156〜165)


気を考える (156) 一指禅功のシンプルな鍛錬法が, 練功者の身体に
どのような影響を与えるかが理解されれば, 気功をプラシーボ効果
の産物に過ぎないとする, 頑固な考えをお持ちの読者も, 少しは変
わるのではないかと期待して, 私見を続けたいと思う。気功を体験
したことのない人のための知的冒険である。


気を考える (157) 一指禅功の鍛錬法は, 次の三つの要素で構成さ
れている。第一の基本中の基本は「馬歩椿」の姿勢で立つ事である。
第二に, 指を順番に曲げるはん指(手指按動法)という一指禅功独特
の手技である。そして第三に, 指先や手のツボから別のツボへと気
を送る「フィードバック法」である。


気を考える (158) 馬歩椿とは, ヨーガの座禅に対して, 立禅すな
わち立った禅の姿勢を指す。前後に揺れることなく, 杭のようにし
っかと立つことで, 自然の外気と身体の内気が交流を始め, 体内に
外気を採り入れ, 内気を充実させることができる。これだけで馬歩
站椿功という一つの功法をなしている。


気を考える (159) それでは, 馬歩椿が身体に与える効果は如何な
るものであろうか。膝を曲げずに真っ直ぐに立った場合は, 体重は
大腿骨などの骨格にかかる。それに対して, 膝を曲げた状態で立つ
と, 全身の体重は, 大腿四頭筋とふくらはぎにかかる。つまり, 体
重を脚の筋肉にかけるところがミソなのである。


気を考える (160) 膝を曲げて立つ馬歩椿の姿勢は, 全体重を骨
格ではなく, 脚の大きな筋肉にかけることになる。この大腿四頭
筋とふくらはぎこそが, 西洋医学的には「第二の心臓」と称され
る部位なのである。すなわち, 馬歩椿の姿勢は, 先ずは「第二の
心臓」を鍛えることから始まるのである。


気を考える (161) 第二の心臓」を鍛えるとは, 一体どういうこと
なのか。読者の皆さんは, 人間の血液循環の仕組みを, すでにご存知
だろうと思う。酸素と栄養分を豊富に含んだ血液は, 心臓のポンプに
よって, 大動脈から身体の隅々の毛細血管にまで送られ, およそ60
兆個の細胞に生命を吹き込んでいる。


気を考える (162) 今度は逆に, 細胞から毛細血管へ送り戻された,
二酸化炭素と老廃物を含んだ血液は, 静脈を通り大静脈を経て心臓に
戻る。ところが, 血液の帰り道である静脈には, 心臓のようなポンプ
がない。ポンプはないけど, 脚の静脈にふっくらと青筋が立ったとき,
脚を机などに載せていると元に戻る。


気を考える (163) 動脈は, 身体の上部の心臓から, 最下部にある
足の指先まで重力の法則に従って送られるので自然な流れとなってい
る。ところが静脈には, 自前のポンプが無いばかりか, 脚の静脈は,
下から上へと重力の法則に逆らって, 血液を心臓に戻さねばならない。
脚の静脈は常に二重苦に喘いでいるのだ。


気を考える (164) そんな静脈の助っ人が, 実は筋肉なのである。身
体を動かすたびに, 周辺の筋肉は雑巾を絞るように, 血液を上へ上へ
と引き上げる。幸いなことに, 静脈の血管内には弁があるので, 一旦
引き上げられた血液は下に戻ることはない。筋肉と弁は協力して, 血
液を心臓に戻すのである。


気を考える (165) 大腿四頭筋は, 人間の身体の中で, お尻の筋肉
に次いで二番目に大きな筋肉であると共に, 最も活動的な筋肉でもあ
る。したがって, この大腿四頭筋とふくらはぎを鍛えることは, 下
半身の血液の循環に, とりわけ静脈にとって大変有効なのである。
これらの筋肉強化は, 冷え性対策にもなる。





第19章 馬歩椿が身体に与える影響 気血促進の効果 (166〜171)


気を考える (166) 気功の理論書によれば, 気と血の相互には「血
が流れれば, 気もまた流れる」という関係があり, それは逆に「気
が流れれば, 血もまた流れる」という関係でもある。馬歩椿の姿勢
をとることで, 大腿四頭筋とふくらはぎの働きで, 下肢の血と気が
上方へと押し上げられるのである。


気を考える (167) 気と血との関係を, 皆さんは「講釈師, 見てき
たような嘘を言い」と, いぶかっているのではなかろうか。ところ
が, この世に「事実は小説より奇なり」ということもある。それで
は, 馬歩椿の姿勢をとり続けることで, 身体にどのような変化をも
たらすか, 具体的に描写していきたい。


気を考える (168) 馬歩椿の姿勢をとり続けると,身体にどんな
変化がもたらされるか。ここからの世界に立ち入るためには,読
者の方にも実践していただきたいことある。それはバーチャル気
功道場のホームページを参考にして,馬歩椿のポーズをとって欲
しいのである。気功は理屈ではなく,実践だからである。


気を考える (169) なぜなら, 馬歩椿という姿勢は, 日常生活の
中で決してありえないポーズであり, ミステリアスな身体の変化
は, 非日常世界の中でのみ起こりうる出来事だからである。空の
高みからお手並み拝見をしていたのでは, 永遠に理解不能である。
気功は実践ありきなのである。


気を考える (170) 馬歩椿のポーズは, 細かいことは抜きにして,
写真の型を真似すれば, 一定の効果は期待できる。注意すべきは
ただ二点。足の爪先から膝が出ないようにすること。反り返った
ような姿勢を続けると, 膝を痛めるからである。それと, 上半身
の力を抜いて立つ「上虚下実」が大切である。


気を考える (171) 馬歩椿のポーズをとったとしょう。脚を伸ば
した姿勢と違って身体が前後に揺れて, 重心が定まらないことを
貴方は知ることになろだろう。馬歩站椿の站椿とは, 杭のように
しっかり立つことで, 意外と簡単ではないのである。杭のように
しっかり立つことから, すべてが始まる。






20章 馬歩椿による主観的な現象 指先の痺れと汗ばみ (172〜174)


気を考える (172) 身体が前後に揺れることなく,杭のようにし
っかり立てるようになると,やがて貴方の身体に予期せぬ変化が
起こり始める。最初に自覚できる変化は,両手の指先に生じるジ
ンジンとした痺れである。長い時間にわたって正座したときに
感じる,あの足の痺れと似ている。何が起こっているのか。


気を考える (173) 長い時間にわたって正座したときに感じる
足の痺れは, 上半身からの圧迫で滞っていた血液が, 正常な流
れに戻った事で生じた現象である。同様に, 馬歩椿のポーズを
とり続けたときに, 指先に感じられるジンジンとした痺れは,
普段と較べて血流が大幅に増えた結果である。


気を考える (174) 馬歩椿のポーズをとり続けていると, 指先
にジンジンとした痺れを感じるだけでなく, 指紋の部分に触れ
てみると, うっすらとした汗が滲み出てくる。一指禅功の練習
を始めた人の誰もが, 最初に出会う気的な反応は, 指先の痺れ
と汗ばみであり, まずは両手の指先に現われるのである。






第21章 馬歩椿による客観的な現象 指先が真っ赤になる (175〜165)


気を考える (175) 最初の気的な反応が, 指先の痺れと汗ばみ
と云うが, 痺れとは主観的な感覚であり, 第三者には知る由も
ない。汗ばみについては, 極端に汗かきの人がいるように, 個
人差があまりにも大き過ぎる, との反論を受けそうである。そ
うであるならば, 貴方に決定的証拠をお見せしよう。


気を考える (176) 馬歩椿のポーズをとり続けていると,指先に
痺れの感覚と汗ばみが生じ,練習を終えて手を眺めて見ると,真
っ赤になっている手の平を発見することだろう。指先の痺れと
は,主観的な感覚に過ぎないかも知れないが,手の平が真っ赤に
なっているのは,誰もがが否定できない客観的な現象である。


気を考える (177) 馬歩椿の姿勢をとり続けていると,手の平
が真っ赤になるだけでなく, それ以上に手指の爪が「真っ赤っ
赤」になっているのである。硬い爪の下にある皮膚には, 外か
らの様々な刺激から身体を守る表皮がなく, 血管や神経などが
通っている真皮が, いきなり露出しているからである。


気を考える (178) 日常の生活をしていた人が, いざ運動を始
めるとなると, 身体の隅々まで酸素と栄養分が必要とされるた
め, 心臓の働きが強まり, 血管内の血流が増える。それと同様
に, 馬歩椿のポースをとり続けるだけで, 運動をしたときと同
じような現象が, 貴方の身体の中で起こっているのである。


気を考える (179) 馬歩椿を練習しただけで, 手の平が真っ赤
になるという現象は, 一部の人に現われるわけではなく, 色の
濃さや赤くなった部位の違いはあるものの,例外なく全員に見ら
れる客観的な事実である。手の平や指先が真っ赤になるという
ことは, その部位に血が集まっていることを意味している。 


気を考える (180) トレーニングを終えて手を眺めて見ると,
手の平全体が真っ赤になっているのだが,よく見ると指先の指紋
の部分が特に濃くなっている。対照的に,手の甲はやや赤くなって
いるものの,手首の横紋から肘にかけては,色彩の変化がまった
く見られない。指先にある毛細血管の密度と関係している。


気を考える (181) 何もしていない日常の状態で, 手の平の写真
にとったとき, 特に指紋の部分が赤くなつているのを見たことが
あると思う。それは, 指先の部分に毛細血管がたくさん集まって
いるからである。としても, 馬歩椿の姿勢をとると, どうして手
の平や指先だけ血量が増えるのだろうか。






第22章 馬歩椿による客観的な現象 指先から気が出る (182〜189)


気を考える (182) 馬歩椿の姿勢をとることで, 大腿四頭筋とふ
くらはぎに負担がかかり, 下肢の血と気が上方へと押し上げられ
る。とすれば, なぜ手の平や指先だけが, 血量が増えて赤くなる
のか。それは, 気を放出する身体的システムと関係している。内
気の放出は, 身体のすべての部位で行われるわけではない。


気を考える (183) トレーニングを重ねれば, 身体の特定のある
部位からも, 内気の放出が可能であるが, 初心者であっても, 馬
歩椿の姿勢をとり続けるだけで, 手の平と指先から内気の放出が
なされる。この内気の放出は, 例外なく誰でも行われることであ
り, 手の平と指先が真っ赤になることとは, 密接な関係がある。


気を考える (184) 気功の理論書によれば, 気と血の相互に
「血が流れれば, 気もまた流れる」という関係があり, それは
逆に「気が流れれば, 血もまた流れる」という関係でもある。
馬歩椿の姿勢によって, 下肢から上方へ押し上げられた気血は,
両腕を通って手の平と指先に集められるのである。


気を考える (185) 馬歩椿の姿勢によって, 手の平と指先に気
血が集められた結果として, その部位が真っ赤になると共に,
ふくらはぎと大腿四頭筋からの圧力によって, 手の平と指先を
通じて, 内気の放出が行われる。身体の中で最も内気外発が容易
なのは, 手の平と指先ということになる。


気を考える (186) 手の平が真っ赤になるのと較べて, 手の甲
がほとんど赤くならないのは, 手の甲からは, 気が放出されて
いないからである。つまり, 手の甲には気が放出される部位が
存在しない。気功師が, 気功治療をするときも, 外気導引をす
るときも, 相手に手の平を向けている理由が, それである。


気を考える (187) 最も内気が出やすいのは, 手の平と指先か
らではあるが, とすれば, 手の平のどの部位から気が出ている
のであろうか。普通に考えれば, 労宮穴ということになろうが,
意外にも労宮穴が必ずしも主役ではない。労宮穴に負けず劣ら
ず, 手の平にある別のツボなどからも出ているのである。



気気を考える (188) 労宮穴以外のツボの一例として, 親指の母
指球にある魚際穴がそれである。内気功第三巻の「双臀攬月功」
では, 両手の魚際穴を重ねて, 喉元にある天突穴に気を送り,
呼吸器系の障害を改善するのである。ツボと認定されている穴
位以外にも, 手の平には気を出す部位が多数存在している。





第23章 手の平から気を出す練習法 経絡弾子功 (189〜)


気を考える (189) 手の平には内気を発する部位が多数存在す
るが, それらの部位を鍛えるために「経絡弾子功」という特殊
な鍛錬法がある。弾子とは玉という意味で, 鉄の玉やガラスの
玉, そして水晶の玉などがある。この「経絡弾子功」では, 水
晶玉を用いて, 手の平にある発功部位を鍛えるのである。












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